妻が願った最期の七日間の宮本英司の経歴や曲|奇跡体験アンビリバボー

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今回奇跡体験アンビリバボーでは妻が願った最期の「七日間」の宮本英司さんと宮本容子さん夫妻について特集されます。

という事で、今回は宮本英司さんと宮本容子さん夫妻や「七日間」の詩や曲について書かせていただきました。

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宮本英司さんと容子さんの馴れ初め

岐阜県出身の山田栄治さんは早稲田大学教育学部で同じ旧姓三木容子さんとクラスで隣の席になったことから知り合いました。

交際を始めると億円に散歩にいったり、容子さんの実家に招待されたり、飲み会にいったりと、質素ながらも。幸せに過ごしておりました。

大学を卒業後は宮本英司さんは山崎製パンに就職し、容子さんは中高一貫の女子高の教員となりました。

宮本英司さんは名古屋工場の営業の配属になりそうなところを大学の先輩に頼みスーパーヤマザキに配属してもらい、東京にそのままとどまることが出来たそうです。

そうして、休みがお互いに違い、すれ違いが続きながらもわずかながらも時間を作り交際を続けていきました。

その後、容子さんのお姉さんの後押もあり、社会人3年目に早稲田大学の大隈会館で結婚式を二人は上げることになります。

新婚後すぐに妊娠が分かりますが、同時に子宮筋腫になる等見舞われますが、無事に出産も致します。

その後、千葉県の長浦に一戸建てを買うと容子さんは家庭菜園で野菜を育て、洋裁を始め、瑛士さんは革細工を始めるなど趣味も増えゆっくりと生活基盤を整え子供達も成人していきました。

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「七日間」について

そんな中2015年に容子さんは癌を宣告されることになります。

容子さんは自分の余命があとわずかということに気づき、結婚50年目ということもあり、英司さんと出会ってからこれまでの事を振り返る交換日記のようなものを書き始めます。

その後、2017年まで自宅療養しておりましたが、嘔吐により衰弱し11月に入院することになり、翌18年の1月19日に容子さんは帰らる人となりました。

宮本英司さんは容子さんの残したものを形にできないかと交換日記に書かれていた詩「七日間」を2018年3月9日付けの朝日新聞に投稿いたします。

するとそれは大きな反響を呼び、これは入院することとなった12月の半ばに英司さんが「家に帰ったら、何がしたい?」と問いかけた際に容子さんが語った詩を、元々入院生活のメモ様に枕元に置いて置いたノートに書き留めたものでした。

英司さんが朝日新聞に投稿しようと思ったきっかけは、容子さんがせっかく生きてきて、本人のやりたかったことの思いだけでもこの世に残ればいいと思ったそうです。

英司さんは「頑張って、生きたいよ。」と容子さんが最後に書いた交換日記の一文をかみしめながら生きる日々とのことです。

妻が願った最期の「七日間」の書籍について

朝日新聞の投稿の後「七日間」の詩を含めた生前に宮本英司さんと容子さんのつづった交換日記が2018年に出版されております。反響を呼びました。

クミコの「妻が願った最期の『七日間』」の配信など

宮本英司さんは七日間を歌として残したいとシャンソン歌手のクミコさんに書簡を送ったことにより、山口百恵さんや郷ひろみさんを手掛けたプロデューサーの酒井政利さんによって製作されました。

歌詞は容子さんの「七日間」の詩の全文ではなく、この詩の内容をベースにまとめられた形になっております。

宮本英司さんは元々クミコさんのファンで歌ってもらえないかと願いお願いしたとのことです。

楽曲はitunesやamazonで配信されております。

最後に

という事で、今回は宮本英司さんと容子さん夫妻の馴れ初めから「妻が願った最後の七日間」の詩や、書籍の出版に至るまでと、それをもとにした、クミコさんの楽曲について書かせていただきました。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました

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